猛虎之巻
詳説・丸目蔵人佐
【名称】
通称: 丸目蔵人(まるめくらんど)、藤原徹斎(ふじわらのてっさい)
正式名称: 丸目石見守入道徹斉蔵人佐藤原長恵
【生没年】
天文9年(1540年)~寛永6年(1629年)5月7日、90歳
【丸目蔵人伝説】
注)あくまでも伝説として。
- 【其ノ壱】 丸目蔵人vs柳生宗矩
柳生石舟斎が息子、柳生宗矩が将軍家指南役として天下一を標榜すると丸目は「我こそ天下一の使い手」と立て札を立てて宗矩に一戦を挑んだ―・・・ (続きを読む)
- 【其ノ弐】 丸目蔵人vs服部半蔵
ある時、服部半蔵は配下の血組十六名が、相良藩主が参勤交代の道中である三島宿と箱根関所付近で暗殺を仕掛けたところ・・・ (続きを読む)
- 【其ノ参】 丸目蔵人vs宮本武蔵
その時、丸目蔵人 73歳、宮本武蔵29歳。巌流島で佐々木小次郎をやっつけて一番意気があがっておる宮本武蔵が一つお手合わせをとやって来た。 (続きを読む)
生涯
肥後国八代郡八代(熊本県八代市)に生まれる。
弘治元年(1555年)16歳 初陣で武功を挙げ、丸目の姓を与えられる。
永禄元年(1558年)19歳 上洛。
新陰流の流祖である上泉伊勢守信綱(上泉伊勢守秀綱、武蔵守信綱とも)に師事する。
上泉伊勢守が将軍足利義輝の前で剣技を披露した折には、蔵人が打太刀を務めている。
(通常、打太刀役は仕太刀役より上手の者が務めるのが一般的である。)
永禄十年(1567年) 信綱から「殺人刀太刀(さつにんとうたち)」「活人剣太刀(かつにんけんたち)」の印可状(免許皆伝)を授かる。
↑上泉伊勢守藤原信綱より丸目蔵人が授かった真陰流免許状。
この頃、新陰流は真陰流・神陰流とも書かれた。(丸目千之助氏蔵)
信綱の死後 師の逝去に落胆した蔵人はますます鍛錬に励み、ついに「新陰タイ捨流剣術」を創始。
これは、新陰流にインドの摩利支天の法や、日本の超古代(イザナギ・イザナミ)に始まる武の道を融合させたものであった。
のちに中国武術の長所を取り入れた総合武術としての完成を見たことで、流派の名称を「兵法タイ捨流剣術」と改める。
晩年 徹斎と号し、切原野(熊本県球磨郡錦町)で晴耕雨読の穏やかな隠居生活を送ったという。
また、書、和歌、仕舞、笛などにも優れた才を示した教養人であったという。
寛永6年(1629年) 死去。法名は雲山春龍居士。
墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山に現存している。
新陰流
上泉伊勢守信綱

↑上泉伊勢守の紋:酢漿草(かたばみ)
新陰流の祖。
愛洲移香に師事し陰流を極めた後、神道流などの諸派を融合させ「新陰流」を生み出す。
推定生没年:永正5年(1508年)~天正5年1月16日(1577年2月3日)
新陰流四天王

↑柳生宗厳の紋:吾亦紅(われもこう)に雀

↑柳生家替紋:柳生笠(やぎゅうがさ)
- 柳生宗厳: 柳生新陰流の祖。大石柳生の人。但馬(たじま)守、号は石舟斎。
- 疋田景兼: 疋田陰流の祖。通称・疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)。
- 神後宗治: 神後流の祖。通称・伊豆守。
- 丸目長恵: 兵法タイ捨流の祖。
以上四名が、新陰流の「四天王」と称される。
九曜紋

中央の大きな星の周囲に、8つの小星が付されているのが特徴。
兵法タイ捨流の紋でもある。
この九曜の型に、剣術の真髄―截り方や足捌き―が集約されている。
兵法タイ捨流覚書
