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丸目蔵人佐伝説

【其ノ壱】 丸目蔵人vs柳生宗矩

柳生石舟斎が息子、柳生宗矩が将軍家指南役として天下一を標榜すると丸目は怒って江戸に赴いた。

「我こそ天下一の使い手」と立て札を立てて御指南役の柳生但馬守宗矩に一戦を挑んだが、勝ち目が薄い上に勝っても利がないと踏んだ宗矩は「柳生は東の日本一、丸目殿は西の日本一」と言って事無きを得た。

また一説によると丸目はこの時柳生家と取引を行い、相良藩にも忍者の組織を持つことを認めさせたといわれている。

この後丸目は柳生新陰流に対する挑戦状として使った日本一の立て札を清水寺に奉納した。
しかし、これが残っていると天下の柳生新陰流の名に傷が付くとして柳生宗矩は忍びを放って清水寺ごと焼いてしまった。
これが江戸時代の清水寺炎上の原因であると言う。
この話の後日談である。

【其ノ弐】 丸目蔵人vs服部半蔵

江戸時代に入り、タイ捨流剣術免許皆伝者を棟梁とする相良忍群があった。
各組の名称は燕飛・猿廻・虎乱・十手・山陰など現存するタイ捨流剣術居合の術技名。

ある時、服部半蔵は配下の血組十六名が、相良藩主が参勤交代の道中である三島宿と箱根関所付近で暗殺を仕掛けたところ、逆に相良忍群の猿廻組と山陰組によって全滅させられてしまったので服部半蔵はタイ捨流剣術裏太刀の凄さに驚いたと云う。

その後さらに半蔵の配下が江戸城内において家康に襲いかかろうとしたが、今度は燕飛組に捕り押えられてしまい、逆に半蔵は始末書を燕飛組に書かされたと云う。

これらの事件以降、相良忍群は他の御庭番衆を監視し続け、全国の情報収集を始めとする活動は幕末まで続けられていたと云われている。

【其ノ参】 丸目蔵人vs宮本武蔵

小山勝清著『それからの武蔵』によると、その時、丸目蔵人 73歳、宮本武蔵29歳。
73歳の爺ちゃんに29歳の青年剣士。
しかもあの巌流島で佐々木小次郎をやっつけて一番意気があがっておる宮本武蔵が一つお手合わせをとやって来た。

丸目蔵人はそれまで畑を耕していた。
そこに宮本武蔵が来てひとつお手合せをお願いしますと言う。
とたんに今まで聞こえていた蔵人の耳が急に聞こえぬようになります。
今まで聞こえておったのが、とたんに
「何じゃ? あ、そうか腹へったか、おいでおいで。」
「いや、一手お願いします。」
「遠慮するな。芋粥なりと進ぜよう。」
と家に連れていった。

囲炉裏の火の上には鍋がかかってごとごとごとごと。
それを丸目蔵人自ら芋粥をついで渡す。武蔵は少しも油断せず芋粥を食う。
丸目蔵人は平気で芋粥を食う。食ってしまうと、また畑に行くといって鍬をかついで出てゆきます。
そしてこちらが家、こちらが馬屋。
家と馬屋の狭い通路を丸目蔵人は鍬をかついでひょっこひょっこ。
73歳の老体が歩いていくわけです。
宮本武蔵もその後から油断なくついて行った。

中ほどまで行った行った時にパーッと振り返った丸目蔵人。
肩の鍬を頭上に振り上げた。
武蔵は左右が狭くて刀が抜けません。
ましてや二刀の剣抜くわけにはいかん。
丸目蔵人は鍬で今にも打ちかかってきます。
だかさすが宮本武蔵。
タッタッタッターッと後ずさって出口まで行って身構えた。
ところが蔵人はその様子を見てニタッと笑って向こうに行ってしまう。
それから後をついて行ったらもう黙―って畑を耕している。
そこで宮本武蔵は「無敵、遠く及ばず」「ご教示、心根に徹しましてござります」と言って何処へともなく去って行った。
という小説のお話です。

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